これは、西條八十著『唄の自叙伝』によると、下記の心持があったようです。
『「かなりや」の歌詞のモーティフは、幼い日誰かに伴(つ)れられて行った、たしか麹町の或る教会だったとおもう。そこのクリスマスの夜の光景(けしき)の回想から生まれた、年に一度の聖祭の夜、その会堂内の電燈はのこらず華やかに灯されていたが、その中にただ一個、ちょうどわたしの頭の真うえに在るのだけが、どういう故障か、ぽつんと消えていた。それが幼いわたしに、百禽(ももどり)がそろって楽しげに囀(さえず)っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥ー「唄を忘れたかなりや」のような印象を起させて哀(あわれ)に想えた。その遠い回想から偶然筆を起してこの童謡を書き進めるうちに、わたしはいつか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた。
そうではないか? 詩人たらんと志して入学した大学の文学研究も、わたしは不幸な出来事から抛棄(ほうき)した。そうして、何よりもまず老母や弟妹の生活を確立するために、兜町通いをしたり、図書出版に従事したりしている。わたしはまさに歌を忘れたかなりやである』
寺嶋陸也さん編曲の合唱は、YouTubeにはないので、小鳩くるみの歌を貼っておきます。
0 件のコメント:
コメントを投稿